元モラハラ加害者が映画「爆弾」を見て自分の加害性と向き合ってみた
先日、映画「爆弾」を観た。
主演の佐藤二朗が演じる「スズキタゴサク」は、酒屋の自販機を壊し、店主を殴った傷害罪で逮捕される。
しかし、取り調べの中で「霊感」と称して爆破予告を繰り返し、それが次々と現実となっていく。
やがて死傷者も出る中、刑事との頭脳戦が展開され、物語は狂気と緊張感を増していく。
中でも印象的だったのは、スズキがYouTubeに投稿した動画の内容だ。
政治家、浮浪者、フェミニスト、独身貴族、妊婦、三人家族などを対象に、殺す理由を次々に挙げていく。
その理由は極めて理不尽で短絡的だ。
にもかかわらず、どこか共感してしまう自分がいた。
「なぜ、こんな発言に共感してしまうのか?」
その疑問が、私自身の中にある“加害性”や“怒りの根源”を見つめ直すきっかけとなった。
もくじ
自分の中の「シャドウ」と向き合ってみる
スズキの動画に対して強く反応した自分を振り返ると、そこにはユングが提唱した「シャドウ」の存在が見えてきた。
シャドウとは、自分の中の醜い部分や認めたくない感情の集合体であり、普段は抑圧されていて表には出てこない。
しかし、何かの刺激によって突然顔を出すことがある。
今回の映画は、まさにその「刺激」だった。
私はそこで自問した。
「自分の人生の中で、殺したいと思う人はいるか?」
結論として、私はムカつく相手に対して「殺す」「死んでしまえ」とまでは思わないようだ。
その理由は「人を殺すことができない」「逮捕されたくない」「犯罪者になりたくない」「人が死ぬ場面を見たくない」などが挙げられる。
ただし、不快な人間に対して「視界から消えてほしい」と思うことはある。
その感情は、まさに私の中のシャドウが反応している証だ。
以下に挙げるのは、私が不快に感じる人々──つまり、シャドウが反応する対象である。
不快に思う人もいるかもしれないが、これが元モラハラ加害者としてのリアルな内面だ。
私が不快に感じる人たち
ここでは、私自身が強い不快感を覚える人々について、率直に言語化してみる。
これは、元モラハラ加害者としての内面の一端であり、感情の抑圧を解きほぐす作業でもある。
不快に思う理由には、過去の体験や特性が深く関係している。
公衆の面前で騒ぐ人
大人も子どもも関係なく、公共の場で騒いだり大声で話す人には強い不快感を覚える。
いわゆる「パリピ」や「ウェイ系」と呼ばれる、デリカシーに欠ける騒がしい人たちは、黙るか視界から消えてほしいとすら思う。
また、子どもが騒いでいるのに注意をしない親にも同様の感情を抱く。
特定の主張を絶対視する人
自分の権利だけを主張し「自分が100%正しい」と断定する人間には、強い拒絶感がある。
対話を拒み、他者の意見を一切受け入れないその姿勢は、独裁的であり、極端な自己中心性を感じる。
こうした人物に対しては「この世から消えてほしい」と思ってしまうほどの嫌悪感が湧く。
耳障りの良い言葉ばかり並べる人
できもしないことを公言し、それを鵜呑みにして支持する群衆にも腹が立つ。
少しは自分の頭で考えてほしい。
調べて掘り下げれば、その主張が現実的でないことはすぐに分かるはずだ。
こうした「ビッグマウス」な人々に対しては、強い不信感を抱く。
同様の傾向は、陰謀論者にも見られる。
SNSで見栄を張る人、自分語りをする人
誰も、あなたの日常にそこまで興味はない。
過剰に加工された写真や、何をしているか分からない集会の投稿を「リア充風」に見せる行為には、違和感しかない。
それに「いいね」を押す人も、何に対しての共感なのか理解できない。
また、ポエム的な文章やアーティストの歌詞を引用して自己陶酔する人にも嫌悪感がある。
それはあなたが書いた歌詞ではない。まるで自分発信のように振る舞う姿勢には、痛々しさすら感じる。
こうした人々には、ブロック対応が最善だと考えている。
モラルのない人
最近は街を歩いていても、大声で会話したり、建造物を傷つけたり、ゴミを捨てたり、ぶつかってきても謝らないなど、不快な行動が目立つ。
モラルもデリカシーも欠如した人々には、強い拒絶感を覚える。
もちろん、特定の国籍や属性に結びつけるつもりはないが、そうした場面を目にすることで人種と紐づけて簡単に断罪する思考が分からなくもないと感じる。
これらの感情をどう処理するのか
ここまでの内容は、かなり攻撃的に映るかもしれない。
しかし、これは自分の中で抑圧していた感情を、あえて言語化したものである。
これらの感情は、確かに私の中に存在している。そして、これは私だけでなく、一定の人が抱えている感情でもあるだろう。
ただし、これを相手にぶつけてしまえば、それはモラハラになる。
感情を持つこと自体は悪ではない。
人間には価値観があり、喜怒哀楽があり、不快な感情を持つのは自然なことだ。
問題は、それをどう処理するかである。
このように、自分の内面にある「加害性」を見つめ直すことは、モラハラ解決の第一歩である。
感情の存在を否定せず、しかし他者にぶつけず、自分の中で整理することが、健全な関係性の構築につながる。
なぜ、これらに腹が立つのか──加害性のルーツを探る
まず、自分の中で「なぜ、これらの人々に腹が立つのか」という部分に目を向けてみた。
すると、それぞれの嫌悪感には明確な理由と背景があることに気づいた。
公衆の面前で騒いだり、大声で話す人
私自身、発達障害の特性から聴覚過敏の傾向があり、大きな音が単純に苦手で不快に感じる。
加えて、幼少期に父親から「うるさい」「黙れ」と怒鳴られ、暴力を受けた経験がある。
そのため、公衆の場では「騒いではならない」という絶対的なルールが自分の中に形成されたと思われる。
特定の主張を絶対視する人
自分の権利だけを主張し「自分が100%正しい」と断言する人間に対しては、強い嫌悪感を抱く。
そのような姿勢は、対話を拒絶する独裁的な態度に見え、自身の存在を拒否されているように感じる。
「この世から消えてほしい」とすら思ってしまう極端な思考が自身に出るという事は、それほど積極的関心を持って対話をするというマインドが強いのだと思う。
耳障りの良い言葉だけを並べる人
こうしたタイプは政治家に多いが、SNS上にも存在する。
嫌悪感の理由は、父の影響が大きい。
父は鉄工所を営む職人気質で「口より手を動かせ」が口癖だった。
そのため、私は言葉よりも行動を重視する価値観を持つようになった。
また、以前の私はASDとADHDの混合型の特性から、タスク達成の見積もりが甘すぎた。
自分では10工程で達成できると思っていても、実際には100工程が必要なことが多く、当然ながら目標達成には至らなかった。
これは、発達特性における「見立ての甘さ」「見通しの欠如」「タスクのハードルの高さ」「能力との不一致」「現実的な思考の欠如」などが原因であり、苦々しい経験を何度もしてきた。
さらに、こうした思考の未熟さから、人の言葉を鵜呑みにして騙された経験もあり、それが教訓となっている。
人生経験として、ビッグマウスで実際にその通りに行動できた人をほぼ見たことがないため、現実的な目標を語らない人は信用しないし、関わらないという意識が強くなった。
自分の頭で考えない人
この嫌悪感も、以前の自分自身がそうだったことに起因している。
私はASDとADHDの混合型であり、特性上、人の言葉を鵜呑みにすることが多かった。
その結果、トラブルに巻き込まれたり、期待した結果と違うことが多々あり、それらを教訓にしてきた。
特性上、苦手ではあるが、自分の頭で考える訓練を重ねてきた。
浅い思考よりも、深く掘り下げて考えることを良しとし、論理的思考も身につけてきた。
現時点では、この思考法が自分にとっての最善解だと感じている。
なので、自身の頭で考えない人に対しての嫌悪感が強いのだと思う。
SNSで見栄を張ったり、自分語りする人
基本的に、見栄を張ったり自慢話をする人が幼少期から嫌いだった。
「そんな人間を好きな人っているのだろうか?」と思うほどだが、SNSではそうした人に「いいね」を押す人もいる。
それは支持しているのだろうと理解はするが、やはり違和感は拭えない。
自己陶酔している人、いわゆるナルシストも苦手だ。
カリスマと紙一重かもしれないが、大抵は痛々しく映る。
この感覚も、幼少期の教えが影響していると思う。
「謙虚にしなさい」「偉そうにするな」という言葉が、今も脳裏に残っている。
モラルのない人
モラルのない人間に対して、私は非常に敏感だ。
職務柄、街中での振る舞いには常に目が向いており、大声での会話、ゴミのポイ捨て、ぶつかっても謝らないといったデリカシーに欠ける行動には強い不快感を覚える。
特に外国人にそうした行動が目立つ場面もあるが、もちろん全員がそうだとは思っていない。
日本人であっても、モラルのない振る舞いには同様に嫌悪感を抱く。
この感覚の根底には、幼少期から父に繰り返し言われてきた教えがある。
「人前で騒ぐな」「人様に迷惑をかけるな」「行儀良くしなさい」──これらは私の中でマイルールとして深く根づいており、それに反する行動を見ると、怒りや拒絶反応が自然と湧き上がってくるのだ。
映画「爆弾」は非常に面白かったので、ぜひ見に行って欲しい。
あなたの中の「スズキタゴサク」が反応するかもしれない。
【この記事を書いた人】
経験と専門性
- 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
- ASD・ADHDの混合型診断済み
- モラハラ加害者としての更生を実現
- 週刊文春オンラインでの3記事の連載で加害者心理と更生過程を完全公開
臨床経験(2010年〜)
カウンセラーとして幅広い支援経験
- 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
- 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
- うつ病の方の復職支援
- 元受刑者・薬物依存者への更生支援
- ひとり親・DV被害者相談
- 企業内パワハラ相談
- 自助グループ・セミナー開催
メディア掲載実績
新聞・雑誌掲載
- 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
- 産経新聞(2021年9月)
- 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
- 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
- ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)
テレビ・ラジオ出演
- NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
- KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)
全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介
モラハラの問題で苦しんでおられる方々の少しでも力になりたいと思っています。
まとめ
今回は、映画に登場する爆弾魔の加害性をきっかけに、私自身の中にある加害性を言語化してみた。
抑圧していた感情や「シャドウ」と向き合い、ジャーナリングによって書き出すことで、自分の価値観がより明確になった。
さらに、何に対して不快感を覚えるのか、その根源やルーツを探ることで、自分の中にある「マイルール」の成り立ちが理解できた。
怒りが発動する仕組みを把握することで、今後同様の事象に遭遇しても、感情のマグマが噴き出す前に冷静に対処できる可能性が高まったと感じている。
また、自分の中のシャドウを否定せず、受け入れることで、他人の「できていない部分」に対しても、少しは寛容になれるようにも思う。
これは、加害者としての変容プロセスであり、日々の修行でもある。
シャドウの存在を自覚することは、決して簡単ではない。
しかし、そのきっかけは意外と身近にある。
誰かの言動に対して「不快だ」「イラつく」と感じたときに、「なぜそう思うのか?」と自問することで、自分のシャドウに気づく入口になる。
今回は映画を通じて自問自答を深めたが、きっかけは何でも構わない。
日常の中で何かに反応したとき、その感情の裏側にある自分の価値観や過去の体験を探ってみることが、加害性の理解と変容につながる。
特に、モラハラ加害者の方には、怒りの感情をコントロールするためにも、こうした内省のプロセスをぜひ実践してほしい。
それは、加害性を手放し、より健全な人間関係を築くための第一歩となる。
モラハラで苦しんでいるあなたへ
私たち夫婦も、かつては離婚寸前まで追い込まれました。
しかし諦めずに夫婦で協力し、モラハラの問題と真正面から向き合い、解決することができました。
現在は幸せに暮らしています。
すぐに離婚だと諦めないでください。解決への道は必ずあります。
私たちがどのようにして危機を乗り越えたのか、被害者妻と加害者夫の両方の目線でリアルに書いています。
被害者の視点から学ぶ
もし「記事は理解できたけれど、うちの場合はどうすればいいのかわからない…」と感じているなら、一人で抱え込まず、ぜひ私たちにお話を聴かせてください。
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