離婚寸前まで妻を追い詰めた夫が語る|モラハラ加害者になった原因【前編】

この記事は、2024年11月に週刊文春オンラインで3回連載された私の体験談を要約・簡易版としてまとめたものです。

前編・後編と二部に分けて説明していきます。

また、妻目線での「離婚寸前から関係修復|私たち夫婦がモラハラを解決した被害者妻の道のり」も合わせて参考にして頂ければと思います。

通常のリジェネブログ記事とは異なり、ノンフィクションライター・旦木瑞穂さんの取材を受けた内容をそのまま記載しています。

インタビュー記事を元にまとめているので、口語や丁寧語が混在していますが、ご了承頂ければと思います。

モラハラ加害者の内面と形成過程について、これまで語られることの少なかった当事者の証言を完全公開します。

この記事はこんな方におすすめです

  • モラハラ被害者の方
  • モラハラ加害者の方
  • モラハラ加害者の更生が知りたい方

もくじ

  1. モラハラ加害者が作られるまで|暴力に満ちた養育環境
  2. 会社倒産でうつ状態に
  3. 結婚後に爆発した「何でわかってくれないんだ」という怒り
  4. 「言わなくてもわかるだろう」という一方的な期待
  5. 妻が受けた「フキハラ」の実態
  6. 妻からの離婚告白で見えた私の自己中心性

モラハラ加害者が作られるまで|暴力に満ちた養育環境

父親から受けた日常的暴力

私は、鉄工所を経営する父親と専業主婦の母親のもとで一人っ子として育った。

父親は早朝から深夜まで働き、家にいる時は常にイライラして母親に暴力を振るっていた。

嫌いなものを残すと、父にゲンコツで殴られた。

泣くと「泣くな!」と怒鳴られ、またゲンコツで殴られた。

頬を平手打ちされたことも何度もある。

母親は止めてくれるものの、父親がその場からいなくなると「お父さんを怒らせないようにして」と父を擁護するため、私は母親を心から信頼できなかった。

孤独な食事と母親のADHD特性

家族3人で揃って食事をした記憶は、両手で数えるほどしかなかった。

私はいつも1人で食事をしていた。

今思えば、母は多動で不注意なところがあり、在庫管理ができないため、食材や調味料、カバンや洋服、日用品など、同じものを何個も買って来てしまっていた。家全体の片付けもまったくできず、特に母の部屋は服が山積みで、足の踏み場もなかった。

そうしたことを父に咎められ、怒鳴られたり平手打ちをされたりして、泣いていることもしばしばあった。

発達障害と暴力環境の複合的影響

40歳でADHD・ASD混合型と診断された私は、発達特性に暴力環境が重なったことで、極度にコミュニケーション能力が低下した。

「僕は40歳の時にADHD(注意欠如・多動性障害)とASD(自閉スペクトラム症)の混合型と診断されたが、おそらくそうした発達特性と父からのDVの影響で、誰に対しても自分のことを話さない、口数の少ない子どもになった。

他人に対して意思表示があまりできず、言語化能力が低いまま成長した僕を、母は不憫に思い、先回りして色々とサポートしてくれていた。

当時の僕は、感謝の言葉を口にすることはなく、発言しようとすると体が固まる、いわば場面緘黙のような状態だったと思う。

また、どうしても嫌で耐えきれない時だけは、勇気を振り絞って、嫌だと言っていたため、両親にとっても学校の先生にとっても、可愛げのない子どもだったと思う。

昭和の学校は体罰と暴力が当たり前だった

小学校高学年になると父親からの暴力は減ったが、今度は教師からの体罰が増加。私が通っていた小・中学校の環境は想像を絶するものだった。

所謂”ヤンキー”たちが毎日のように生活指導の教師とやり合い、教師の車のフロントガラスが割られたり、校庭の隅にある焼却炉が爆破されたり、授業中に隣町の”ヤンキー”たちが角材や金属バットを持って乗り込んできたりと、暴力的な光景が日常的にあった。

野球部顧問からの壮絶な体罰

中学の野球部では、顧問からの体罰がエスカレートしていた。

「野球部の顧問は、気に入らない生徒には「このボケが! 殺すぞ!」「お前らなんか生きている意味ないんじゃ、クソが!」などと罵詈雑言を浴びせ、近距離からボールをぶつけたり、平手打ちを喰らわせたりして、ろくに野球の練習をさせず、引退までひたすら外周を走らせた。

僕が人に相談しない体質になったのは、「男は弱音を吐くな」「泣くな」と父親から繰り返し言われてきたことが影響しているのだと思う。

それに加えて、時代背景的に「金八先生」や「ビー・バップ・ハイスクール」などが賞賛されていた時代なので、ムカついてはいたが、こういう環境が普通だと思い込んでもいた。

「口答えするな」で封じられた自分の意見

ASD受動型の特性を持つ私は、受身で自分の意見が言えない体質になっていく。

この体質形成には、幼少期の父親からの言葉が大きく影響していた。

小学校に上がった私が、たまに家にいる父親に学校であったことを話し始めると、「うるさい!」「黙れ!」「しょうもないことを言うな!」と聞く耳を持ってもらえなかった。それでも食い下がると、「口答えをするな!」と怒鳴られる。

「相手から嫌なことを言われると、頭が真っ白になり、言葉が出ず、その場で言い返すことができませんでした。

何も言わないと、相手には同意したと思われてしまい、結果的に都合良く「イエスマン」として扱われるようになった。

高校生になると、私の家に悪い友だちが集まるようになり、朝まで麻雀をして居座られたり、部屋の中で喫煙されたりするほか、私のお金でカラオケに行くようにもなった。

車の免許を取得してからは、友だちと会うときは必ず全員を家まで送迎させられた。

当時は「人に嫌われたくない」という気持ちが強くて、後から自分の意見や言い返したいことが思い浮かんでも何も言えず、嫌な人間関係も自ら断ち切ることができず、嫌々付き合っていた。

この経験からも、言葉で意思を表示することができなくなり、「自分の意見を言ってはいけない」「相手にコントロールされることへの強い拒否感」を形成し、後に「言わなくても察しろよ」という一方的な期待が強化されることにつながっていく。

会社倒産でうつ状態に

30歳の時、父親の会社が倒産。

持ち家も手放し、私は工場関係の仕事を転々とするが体調を崩してしまう。

子どもの頃からコミュニケーション能力が低く、手先も不器用だったので、なかなか新しい環境に馴染めず会社の先輩にいじめられたりもして、精神的に病んでしまった。

そのときは病院には行っていないが、今思えばうつ状態だったと思う。

その後1年ほど実家に引きこもった私は、心理カウンセリングの存在を知り、当初は自身のメンタル回復のために、カウンセラー養成講座に通っていた。

心の回復過程で、何の取り柄もない自分でも人の役に立てるかもという思いから、心理カウンセラーになることを決意。

35歳で心理カウンセラーとして働き始める。38歳で12歳年下の妻からプロポーズされ結婚するが、結婚半年で妻は離婚を考えていた。

「マグマのような怒り」の正体

結婚後に爆発した「何でわかってくれないんだ」という怒り

結婚後、過労とプレッシャーの中で、私は妻に対して激しい怒りを示すようになった。

「結婚生活は生活費を折半する内容で合意はしていましたが、自分が一回りも年上で、結婚観として「夫が妻を養うもの」という考え方が無意識的にあり、常に「頑張らないといけない」という思いがあった。

また、そのプレッシャーとは別に、35歳の頃から公的機関や福祉施設、企業内でのカウンセリングに従事する他に、自営業者としても心理カウンセラーを始め、二足のわらじ状態となって、完全に業務量がオーバーしていた。

「言わなくてもわかるだろう」という一方的な期待

寝る間も惜しんで働き、高ストレス状態の私は、常にイライラし、期せずして父親と同じ状態になっていた。

「身勝手な話ですが、僕の思い通りに動いてくれない妻に、「何でわかってくれないんだ!」という思いから常にマグマのような怒りがあった。

思い通りに動いてくれないと言っても、僕は妻に直接要求はしていない。

「言わなくてもこれくらいわかるだろう」「察してくれよ」と思っていたのだ。

ここに私の心理の本質が現れている。

具体的な要求はせず、相手が察することを一方的に期待し、それが満たされないと激怒する。これが私の行動パターンだった。

妻が受けた「フキハラ」の実態

妻の証言も週刊文春で紹介されている。

「夫からモラハラを受けていた新婚当初は、全て夫の思い通りにいかないと機嫌を損なう状況でした。はっきりとした暴言というものはほとんどなく、今で言う”フキハラ(不機嫌ハラスメント)”で、全て夫が正しい=私が間違っているという図式にされるため、頭がおかしくなりそうでした」

妻からの離婚告白で見えた私の自己中心性

結婚から1年後、妻から衝撃の告白を受ける。

「あなたのことで悩んでいて、精神的な疲労からカウンセリングも受診したし、実は離婚を考えていた」と言われた瞬間、妻のことを気にする余裕なんてなくなり、パニックになっていた。

只々受け入れられず、ショックを受けて、次に怒りが湧いてきた。

この怒りは、妻のために自分なりには頑張っていたのに、何で非難されないといけないのかという思いからだ。

当時の自分は本当に自己中心的だったと思う。

ここに私の本音が表れている。

自分は家族のために頑張っているという一方的な思い込みと、それが理解されない怒り。

被害者である妻の苦痛よりも、自分の努力が認められないことへの憤りが優先される。

これが私の本音だった。

それから1ヶ月ほど経った頃、ようやく「俺は一体、何をしているんだ」という反省の気持ちと、心の底から妻に対して申し訳ない気持ちになった。

僕は「何のために身を粉にして頑張っていたのか」と自問した。

結婚当初は「妻を幸せにしたい」「妻に良い暮らしをさせたい」という一心だったのに、結果的に愛する妻を傷つけて、離婚寸前まで追い込んでしまった。

ここは何としてでも、「自分が改心しないといけない」「妻がくれた最後のチャンスを、絶対に無駄にしてはいけない」と思い、本気で自分の問題と向き合う決意をした。

【後編】予告|加害者体質をどうやって改善したか

週刊文春連載の後半では、私がどのように加害者体質を改善していったかを詳細に描いています。

もしあなたが自分の養育環境と重なる部分を感じたり、「マグマのような怒り」に共感したり、妻から同じような指摘を受けているなら、後編では更生の具体的方法を紹介しています。

【週刊文春オンライン掲載記事】

加害者心理のさらなる詳細については、上記の週刊文春オンライン記事をご覧ください。

【この記事を書いた人】

経験と専門性

  • 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
  • ASD・ADHDの混合型診断済み
  • モラハラ加害者としての更生を実現
  • 週刊文春オンライン3回連載で加害者心理と更生過程を完全公開

臨床経験(2010年〜)

カウンセラーとして幅広い支援経験

  • 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
  • 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
  • うつ病の方の復職支援
  • 元受刑者・薬物依存者への更生支援
  • ひとり親・DV被害者相談
  • 企業内パワハラ相談
  • 自助グループ・セミナー開催

メディア掲載実績

新聞・雑誌掲載

  • 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
  • 産経新聞(2021年9月)
  • 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
  • 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
  • ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)

テレビ・ラジオ出演

  • NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
  • KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)

全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介。

モラハラの問題で苦しんでおられる方々の少しでも力になりたいと思っています。

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